「かぐや姫の物語」と苦しみこそが生きている的な発想について

普通に話は原作通りらしいし評判も悪くないので,映像美を見に行こう的な気分でかぐや姫の物語を観に行ったら,主要プロット以外はまったく原作通りじゃなかったので面食らった。以下,ネタバレ全開で不満を書き連ねる。

主要プロットは同じなのに,原作通りじゃないってのがどうやって可能かといえば,全く視点が違っているから。

竹取物語の原作自体は,かぐや姫という異物の周りを取り囲む人間の悲喜劇に焦点を当てているので,実はかぐや姫にはほとんどカメラは寄らない。というか,かぐや姫は存在自体がデウスエクスマキであって,現れたかと思えば,一瞬で成長し,成長したかと思えば,さっさと月へ帰る。

監督がどこぞのインタビューで,かぐや姫の心理がチグハグだと書いていたけど,基本的に人形であるかぐや姫の心理がチグハグと言われても,そりゃそうだろうとしか言い様がない。その心理を描こうとして山での人との交流をオリジナルで付け足してるわけだけど,終わってみれば小学生の時の初恋を後生大事に抱えてる三文芝居に終始してしまう感がひどい。

その意味で,タイトルにあるかぐや姫罪と罰ってのがイマイチよくわからなかった。単純には捨丸との約束を破ったことなんだろうが,それでは三文芝居にも程があるし,最後に月の人として現れるのが,どう見てもお釈迦様的な何かなわけで,そう考えるともう少し仏教的な色付けをすべきに思える。劇中の描写と合わせて普通に考えると,苦しみ迷う事こそが生であると思ったことなんだろう。ただ,その思想に対して,かぐや姫は特に罰されることもなく強制的に記憶を消されて終わる。

仏教は,(自分の理解では)普通に生きている限り四苦から逃れられないとは言っているけど,苦しまない限りは本当の生ではないなんてことは言っていない。

苦しみ迷うことこそが生であると考えたという罪に対して,苦しみと迷いに満ちている人間界に落とされるという罰を受けた。問題は,その罰がなぜか本人の一時的な希望によって解除されるということ。そして,本人は別にその根本思想を見直すことなく,何故か記憶を消されて元の世界に戻っていく。確かに,天上界も輪廻からの解脱をしていないという意味では悟れていない境地なのだからそういうことがあってもいいのかもしれないけど,なんか変。

その意味で,本来ならば最後にかぐや姫が月の羽衣を無理やり着せられるシーンは,自ら羽衣を着るべきで,そのような行動が納得できるように心理描写を組み立てるべきだったと思う。ただ,そうしてしまうとあまりにも超然としていて,今の日本人から共感を呼べるキャラクターになれない可能性は高かっただろうが。そもそも,かぐや姫を今の日本人にとって共感を呼べるキャラクターにする必要があるの?という根本的な疑問がある。

それはそれとして,最近の日本のアニメって,苦しみとか痛みこそが生であるってところに落ちつくのが結構あるなって思ってて,フレッシュプリキュアとか,グレンラガンあたりが代表例だと思うけど,安寧な支配と苦渋に満ちた独立で,とりあえず後者を選んだアニメは多数あれど,前者を颯爽と選んだアニメってヴェーダの支配を受け入れたガンダム00くらいしか思いつかない*1。これが一体どんな宗教的な思想に基づいたものかってのがかなり興味がある。キリスト教でも仏教でも神道にも直接にはそういう発想ないと思うので,かなり不思議。

*1:同じガンダムでも,ガンダムSEED DESTINYではDESTINYプランという安寧な支配を拒絶したなあ